岸信介とアヘン王の関係を追う~

現代ビジネス


【転載開始】


■岸信介とアヘン王の関係を追う~

 密売で儲けた「数兆円」はどこに消えた?

 9/21(火) 6:32配信


 今から90年前の1931年(昭和6年)9月18日

午後10時20分頃、中華民国奉天(現在の瀋陽)

郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発

が起きた。

これを端として関東軍は“満州”を占領――

「満州事変」である。


 当時、夢の国とされていた“満州国”では

何が起こっていたのか…

ノンフィクションライター・魚住昭氏が

『週刊現代』2016年8月13日号に寄稿した

『岸信介とアヘン王の関係を追う~密売で

儲けた「数兆円」はどこに消えた? 』を

再録する。


■意外にも平凡な「アヘン王」の風貌


 千葉県市川市の江戸川沿いにある

里見公園は、戦国時代に里見一族が北条氏

と戦って敗れた古戦場として知られている。


 土曜の午後、その里見公園の隣にある

総寧寺を訪ねた。

上海の「阿片王」といわれた里見甫の墓

があると聞いたからだ。


 人気のない境内の奥の墓地に入って探し

たら、すぐ見つかった。

こぢんまりした墓石に「里見家之霊位」と

刻まれ、側面には「岸信介書」とあった。


 たしかに岸の字だ。少し丸みを帯びて

いて優しげで、しかも繊細である。

岸がその政治人生でしばしば見せる、

激しさや冷酷さは少しも感じさせない。


 「字は体を表す」とか「書は人なり」と

いうけれど、岸にはその格言は当てはまら

ない。

彼はつねに千変万化する。

善人なのか、悪人なのか。

鵺のようで捉えどころがない。


 一方の里見はどうだったのだろう。

彼は戦後の1965(昭和40)年、69歳で亡く

なった。

われらが先達、草柳大蔵は『実録・満鉄

調査部』(朝日新聞社刊)で里見をこう描い

ている。


■私利私欲とは縁遠い男


 〈五尺五寸ほどの痩せた男である。頭の

頂天が尖っていることのほかは、何の変哲

もない風貌をしている。むしろ柔和である。

路傍の地蔵尊や野際の石小法師の前をとおる

ときは、必ず足を停めて掌をあわせる。

物静かな語り口であり、周囲の人が「どうし

て生きているのか」と訝るほど食事を摂ら

ない〉


 さすが草柳である。

里見の人間像が眼前に浮かぶ。

里見はアヘンで中国に途方もない害毒を垂れ

流したが、彼自身は私利私欲とは縁遠い、

恬淡とした男だったらしい。


 草柳によれば、里見は上海・虹口の乍浦路に

面したピアス・アパート3階に住んでいた。

6畳と3畳の二間しかない家で、秘書はおかず、

「おちかさん」という身の回りの世話をする

女性が通いで来ていた。


 乗用車はビュイックの中古車で、しばしば

藍衣社(=蒋介石直属の秘密結社)の狙撃の的

になったが、運の強い男で、かすり傷ひとつ

負わなかったそうだ。


 総寧寺の里見の墓石のわきには友人の筆に

なる小さな墓碑が建っていた。

そこに刻まれた語句が里見の生の核心を見事

に捉えているような気がした。


 凡俗に堕ちて 凡俗を超え

名利を追って 名利を絶つ

流れに従って 波を揚げ

其の逝く処を知らず


■里見と岸の関係


 里見と岸の間にはいったいどんな交流があった

のだろう。

岸は戦後になって『岸信介の回想』(矢次一夫・

伊藤隆との鼎談・文藝春秋刊)でアヘンについ

てこう語っている。


 〈満州国ではアヘンの吸飲は厳重に禁止したけ

れど、陰で吸っているのはいたでしょう。(中略)

いずれにせよ満州ではアヘンを禁止し、生産も

させないし、吸飲もさせなかった〉


 読者はすでにおわかりと思うが、この発言は

著しく事実に反する。

満州国は表面上はアヘン根絶を目標に掲げたが、

熱河地方ではケシの栽培を奨励した。

それでも足りない分は華北などから輸入し、

アヘンの専売で莫大な利益をあげていた。


 岸がつづけて語る。


 〈しかしアヘンを扱ったものとして里見という

男のことは知っています。ただ私が満州にいた頃

は里見は上海で相当アヘンの問題にタッチしてい

て、金も手に入れたのでしょうが、満州には来て

いないから私は知らない。里見を知ったのは帰国後

で、満映にいた茂木久平の紹介です。里見が死ん

で墓碑に字を書いたことがあるけれど、これも茂木

に頼まれたからですね〉


 茂木久平とは、満州の「夜の帝王」甘粕正彦が

理事長をつとめる満州映画協会の東京支社長

だった男である。

どうやら岸は、里見とはそんなに深い関係では

なかったと言いたいらしい。


 たしかに岸と里見の直接的な交流を示すデータ

はほとんどない。

唯一、佐野眞一さんの『阿片王 満州の夜と霧』

(新潮社刊)に、戦後、里見の秘書役をつとめた男

の証言が出てくる。


 岸は満州から帰国後の1942(昭和17)年、

翼賛選挙に立候補して当選した。

秘書役によれば、このとき里見は、岸に200万円

(現在の約16億円相当)を提供した。

「鉄道省から上海の華中鉄道に出向していた弟の

佐藤栄作(後に首相)が運び屋になって岸に渡した

んだ。これは里見自身から聞いた話だから間違い

ない」という。


 しかし、これは残念ながらまた聞きである。

真偽の判断はつかない。

それより東京裁判に提出された里見の宣誓口述書

を読んだほうが、戦時中の岸と里見の関係の

バックグラウンドを知る手掛かりになりそうだ。


 〈私即ち李鳴(=里見の中国名)事里見甫は良心

にかけて次のことが真実である事を誓ひます。

 1937年9月又は10月私は新聞記者として上海に

参りました。

私はそれ以前天津に居つたのであります。


 1938年1月又は2月に楠本実隆中佐が私に特務部

(=支那派遣軍参謀部の一部)のために多量の阿片を

売つて呉れるかどうか尋ねました。彼は此の阿片が

ペルシヤから来る途中にあると云ひました〉


 里見はこの後、ペルシャ産アヘンで得た利益は

約2000万ドル(現在の日本円で数兆円相当)に上る

こと、その利益は特務部(後に廃止)がある間は

特務部に、それがなくなってからは興亜院

(占領地の政務・開発にあたる日本の機関)に支払わ

れたこと、1939年の末ごろには蒙古産アヘンも

販売し、その大部分は中華航空機で運ばれてきた

ことなどを語っている。


 問題は興亜院などに送られた金がその後、

どこに行ったのかだ。

里見は知っているはずだが口をつぐんでいる。

私はいろんな文献にあたるうち、

『阿片吸煙禁止処理経過事情』という文書に

突き当たった。

宣誓口述書と同じく東京裁判の検察側証拠として

提出されたものだ。


【転載終了】

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 中国は、アヘン戦争もありいまだに麻薬

を憎んでおり、麻薬に関わった人物は外国人

であろうと極刑ですね。


 ネットゲリラ氏は、こんな解説をして

いますね。

>安倍晋三と満州阿片コネクション、と

いう話なんだが、なんであんなヤツが

自民党に居座って威張っているのか?と

いうと、先祖伝来の満州コネクションの

隠し資産がいっぱいあるからで、岸信介、

児玉誉士夫、里見甫の、満州コネクション

で戦後の日本を支配して来た。里見は、

電通が今のような広告会社になったきっか

けを作った一人であると佐野眞一が言って

るんだが、電通も満州コネクションの一環

です。里見甫は戦争中に上海で阿片を

仕切って、関東軍の資金源となった。

戦争というのは、表に出せないカネがいろ

いろ必要なんですw


>国民党は阿片取引に関わっていたが、

中国共産党は関わっていない。だから

共産党の麻薬関係の取締りは厳しくて、

やたら死刑にする。日本人の覚醒剤運び屋

も死刑になっている。覚醒剤と言えば安心

の北朝鮮製なんだが、なんせ戦前に日本が

作った工場で、昔ながらの製法で作られる

伝統の味なので、効きが違う、とヤクザ

業界でも評判なんだが、昔からの基本です

ね、諜報機関と麻薬というのはw 殺され

た金正男は背中に虎の刺青を背負った、

覚醒剤売上げの回収人だったという話が

あって、口封じに殺された、とも言われる

んだが、だとすると、それを指示したのは

北朝鮮ではないかも知れないねw


 中国は、岸・安倍一族憎しです。


 A級戦犯である岸信介を免除したのは、

某国の日本支配のためです。

某国の秘密文書公開法で、岸信介はC某国

のスパイだったという文書が公開されてい

るそうです。

LC=相棒's のじじ~放談!

時事関係や自動車関係などの記事を書いています。

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