なぜ日本人の給料は韓国人より年間38万円分も少なくなったのか?
まぐまぐニュース
【転載開始】
■なぜ日本人の給料は韓国人より
年間38万円分も少なくなったのか?
2021.09.29 大村大次郎
■日本人の給料が韓国より安くなった
ワケ(前編)
最近、衝撃的なデータが発表されま
した。
2020年のOECDの調査によると、
日本人の給料は韓国より安いということ
が判明したのです。
OECD加盟国の中で、日本の平均賃金は
22位であり19位である韓国よりも年間
で38万円ほど安くなっているという結果
が出たのです。
このOECDの調査は名目の賃金では
なく「購買力平価」です。
購買力平価というのは、
「そのお金でどれだけのものが買えるか」
という金額のことです。
賃金の額面とともに、その国の物価など
も反映されます。
つまり「その賃金の購買力を比較している」
というわけです。
ということは、日本人は韓国人よりも、
38万円分も生活が厳しいということになり
ます。
なぜこのようなことになっているので
しょうか?
それはこのメルマガで何度も述べています
ように、政治と財界のせいです。
バブル崩壊以降、日本の財界は、雇用を
おろそかにしてきました。
日本は、この20年間先進国の中で賃金が
上がっていない、ほぼ唯一の国です。
また賃金を上げないだけではなく、
非正規雇用も増大させました。
先進国の中で、日本は突出して非正規雇用が
多い国なのです。
その結果が、「韓国よりも賃金が安い」と
いう状態になったのです。
■高度成長期の日本は雇用を何よりも大事に
していた
そもそも日本は、
「雇用や国民生活を大事にする」ということ
で、経済成長をしてきた国です。
高度成長期を象徴する出来事に
「所得倍増計画」というものがあります。
所得倍増計画というのは、その名の通り国民
の所得を倍増させるという経済政策です。
つまりは、国民の懐を潤すことに主題を置い
た経済政策であり、こういう国の方針が日本
に高度経済成長をもたらしたのです。
昭和35年(1960年)に池田勇人首相に
よって発表された所得倍増計画は、10年間
で国民所得を26兆円に倍増させることを
目標にしたものでした。
実はこの所得倍増計画が発表された当初、
経済学者、有識者の中は「何を馬鹿げた
ことを」というような意見を言うものも
多かったのです。
戦争に負けて、大きなダメージを受けた貧し
い日本が、そんな奇跡のような経済成長が
できるわけはない、ということです。
しかし、そういう懸念をよそに、その後の
日本経済は予想以上に成長し、国民所得は
7年で倍増に達しました。
この所得倍増計画を立てたのは、下村治
という経済学者です。
昭和30年代前半の日本社会というのは、
戦後の民主化による市民運動、労働運動が
もっとも激しいときです。
国民世論やマスコミも、「企業や資本家」
を吊し上げるという方向に行きがちでした。
経済学者たちも「経済成長」よりも、
いかにブルジョアジーから労働者にお金を
回すか、ということばかりに気を取られて
いました。
が、下村治は、「現在の日本は、上から
下まで皆、貧しい。企業や資本家も、そん
なにお金を持っていない。しかし優秀な
人材はたくさんいるのだから、復興さえ
できれば、大きな経済成長が見込める」と
いう考え方を持っていました。
その考えをもとに「所得倍増計画」を立案
したのです。
池田勇人や下村治や卓見だったのは、
経済を成長させるうえで、「国民の所得」
というものを第一のターゲットにしたこと
です。
「国民の収入が増えれば、経済はよくなる」
という、非常に単純だけど、なかなか行き
付きにくいテーマに、真向から取り組んだ
ことです。
確かに「所得」をターゲットにしたのは、
的を射ていました。
国民の収入が増えれば、消費も増えます。
消費の拡大がまた経済成長につながるのです。
つまり、まず所得を増やし、それを牽引車に
して、経済を成長させる、という考え方です。
国民の収入が増えれば、国民の間にあった
分断も解消されました。
戦後間もない時期は、激しい労働運動が展開
されていましたが、所得倍増計画後には、
日本の労働運動は下火になっていきました。
日本で労働運動が下火になったのは、各企業
が従業員が不満に思わないように、それなり
に賃金に気を配ってきたからです。
「企業は雇用を大事にし賃上げに全力を尽く
す」
「従業員は無茶なストライキなどはしない」
労使のそういう信頼関係の元に、日本特有の
「日本型雇用」が形づくられたのです。
■「労使はお互いを尊重する」という日本
の伝統
そのいい例がトヨタです。
戦後のトヨタは、いちはやく「従業員と会社
が共に潤っていく」という方針を打ち出し、
高度成長期の日本の労使関係のモデルにも
なったほどです。
終戦後の10年間というのは、労働運動が
非常に激しいものがありました。
トヨタでも、1950年には、2か月に渡る
ストライキも決行されています。
が、1962年、トヨタの労働組合と経営側に
より「労使宣言」が採択され、トヨタの労使
は「相互信頼を基盤とし、生産性の向上を
通じて企業繁栄と労働条件の維持改善を図る」
ということになったのです。
つまりは、トヨタの労働組合は、経営との
協調路線を採ることになったのです。
これは、戦後の日本企業を象徴するようなもの
だといえます。
以降、トヨタの労働組合は、ストどころか、
団体交渉さえ行なったことがなく、賃金、
労働条件などすべての労働問題は、労使協議会
で行われています。
組合の幹部になることが、トヨタ内での
出世コースにさえなっているのです。
これは雇用や賃金をトヨタがしっかり守る姿勢
を見せたので、従業員側も歩み寄ったという
ことです。
このように高度成長期からバブル崩壊まで、
日本はこの「国民の所得、雇用を何よりも大事
にする」という方針を持っていました。
だから90年代初頭まで日本の平均所得は上昇
し続け、雇用も守られ続けたのです。
日本人のほとんどが「自分は中流」だと
感じる「一億総中流社会」が到来したのです。
自分が中流だと思うということは、国民の
ほとんどがそれなりに豊かさを実感していた
ということです。
日本経済が世界でもっとも強かった時期、
日本で格差問題などはほとんどなく、
みながそれなりに豊かに暮らせていたのです。
しかし、バブル崩壊以降、日本はそれまで
とまったく逆の経済政策をとることになります。
高度成長期に労働組合などは無力化していた
ので、企業が賃下げを打ち出せば、ほとんど
抵抗もできずにそれに応じることになりました。
しかも、政治が率先して、企業の賃下げや
非正規雇用の増大を後押ししたのです。
そしてそれが、結果的に、日本に終わりのない
閉そく感をもたらし、国際的な地位をも低下
させることになったのです。
【転載終了】
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端的に言えば、小泉政権から入閣し、
安倍政権、菅政権と経済諮問会議民間委員
として暗躍してきた竹中平蔵氏が持ち込ん
だ「新自由主義」派遣分野の拡大など賃金
を抑制する政策を打ち出したために、内需
が落ち込み、貧困化が進んでしまいました。
特に若い世代の貧困化ですね。
それに伴い、消費が落ち込んでいきました。
岸田政権に唯一期待出来るのが、
「新自由主義」からの脱却ということです。
経済政策から竹中平蔵氏を追放すること
を期待しています。
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