「翁長雄志は命がけでした」・・・


鳩山由紀夫

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@hatoyamayukio

9月1日

翁長知事の奥様へのインタビューで、

辺野古の埋め立て承認を撤回すると、

一般の県職員にまで損害賠償を求める

可能性があると、国が脅しをかけていた

ことが明らかになった。これをパワハラと

言わずに何をパワハラと言うのだろうか。

この圧力に屈しなかった翁長知事の遺志

を国民全体が守ろうではないか。

17:59 - 2018年9月1日


 これは事実なのだろうか?


2018年9月1日 07:08 沖縄タイムス


【転載開始】


■「翁長雄志は命がけでした」

 妻樹子さんが語る壮絶な最期


 8月8日に亡くなった前知事の翁長雄志さんの

妻の樹子さん(62)は、沖縄タイムスのインタビュー

に、名護市辺野古の新基地建設問題に関する

前知事の思いなどを明かした。

(聞き手=政経部・福元大輔)


■沖縄の人たちの心を一つにしたかった


 撤回と聞いて「あなたが待ち望んでいたことよ。

自分の責任でやりたかったと言うでしょうけど、

皆さんが遺志を継いで頑張ろうと立ち上がって

くれたのよ」と仏前に報告しました。


 翁長雄志は命がけでした。

他の人にはなぜそこまでするのか、

と理解できないかもしれません。

政治家として自分に何ができるかを追い求めて

きた人です。

若い頃は何を考えているのか、何をやりたいのか、

分からないこともありましたが、亡くなって初めて

思うんです。

ずっとつながっている。沖縄のことを思い、

沖縄の人たちの心を一つにしたかったんだと。


 本人は亡くなる直前に言ったんです。

辺野古問題で悩むことが多かったでしょ。

「人がどう言うか、分からない。人がどう評価する

か、分からない。でも、知っていてほしい。僕は精

いっぱいやったんだ。これ以上できない、それでも

足りないだろうか。僕の力がそこまでだったんだろ

うか」と。

私が「ウチナーンチュだったらきっと分かるはずよ」

と言ったんですよ。

そしたら、翁長は静かに笑ってました。


■県民が諦めなければ新基地は止められる


 7月27日に撤回を表明し、30日に入院しました。

10日そこそこで亡くなったんですが、

肉体的にはとっても大変、きつかったと思うんです。

弱いところを見られたくないという思いが強かった

ですから。

副知事や公室長が来たときも病室のいすに座って

話をしていました。


 若い頃から政治一筋だったので、自分がいま何

やるかが分かっていたのかもしれない。

撤回の準備に入ったのも、自分の体調が本当に

厳しくなってから。

どうにか撤回まで持っていきたいと考えていた。


 ぎりぎりの状態で進め、結局、自分で撤回する

ことなく亡くなってしまったけど。

後は任せるということになり、本当に申し訳ないと

いう気持ちだった。


 県民が諦めなければ辺野古の基地は造られない

と思う。

それは翁長も私も信じていた。

県民が辺野古の基地はもうしょうがないということ

になれば、未来永劫(えいごう)沖縄に基地を置か

れたままになる。

それでいいのでしょうか。

翁長は命をかけて、そこを問い続けた。

もう一度踏ん張りたい。私にはそれしかできない。


 ウチナーンチュが一つになって、団結したとき、

私たちが考えている以上の力強さがあると次男

が県民大会で言ったでしょ。

本当にその通りだと思うんです。

一つになって立ち上がる。

その強さを翁長は求めていたんだと思うんです。

若い頃から。


■私が翁長の背中を押した理由


 7月27日の記者会見の時、知事室からエレベー

ターに向かう廊下の窓際に腰を掛けて休んでいた

のを記者たちが見て、記者会見で聞いたら、外反

母趾(ぼし)と応えていたけど、あれは全然違う。


 前日、県庁に行って撤回に向けた最後の打ち合わ

せをして、公舎に「ただいま」と帰ってきた。

玄関にあったいすに座って3分、廊下で3分、

リビングで3分、寝室までの廊下でまた3分、

5メートルを歩くのに20分かかる状況だったの。


 「記者会見で自分の思いを伝えることができるだろ

うか。記者の質問に答えることができるのだろうか」

と私に言ったの。


 私は「できるに決まっているじゃないの。何のために

頑張ってきたの。あなたがやらないで、誰がやるの」と

背中を押しました。


 口の中いっぱいに口内炎ができていて、

小さな粒の薬を飲むのも少しずつ少しずつ流し込む

ように。

これも20分かかったかな。


 翌日起きて、送り出して、記者会見で30分間話し

続けることができたと聞いて、私は「神様ありがとう」

と何度も繰り返した。


 弱い姿を見せたくなかった人ですから、

外反母趾と言ったんでしょう。

私がそうじゃなかったと言ったことで、

翁長は怒っているかもしれません。

「なんで本当のことを言うんだよ」って。

言葉が聞こえてくるようです。


 そんなきつい翁長の背中を私が押したのには理由が

あるんです。


■もう新聞を読めないよ


 撤回が現実味を帯びてきた頃、国から「一般の職員

にも損害賠償を求める可能性がある」という情報が

伝わってきたんです。

脅しのようにも聞こえるでしょ。


 県庁内は戦々恐々になったようで、

翁長は「自分は政治家だから丸裸にされても、撤回を

やる覚悟はある。でも一般職員をそんな矢面に立た

せるわけがない」って、強く言ったんです。

私たち家族もその責任を負う覚悟はありました。

でも一般職員にそんなことを言うのはどうなんでしょうか。


 皆さんには本質を見てもらいたい。


 2期目の出馬についても、本人から直接聞いたわけ

ではないけど、12月の任期を全うできないと感じて

いるんじゃないかなと思うことがあったんです。


 例えば、4月に膵臓(すいぞう)に腫瘍が見つかる前

から、公舎にあった自分の本の整理を始めたんです。

大切にしていた本も捨てて。

何をしているのと聞いたら、

「これは君たちにはできないことだから、僕がやるんだ」

と言うんです。

何があっても新聞を読む人でした。

胃がんの時も膵炎(すいえん)の時も、

病室で私が来るのを待つというより、

私が手に持つ新聞を待っているんです。


 それが、亡くなる2日前に、新聞を差し出すと

「ごめん。もう新聞を読めないよ」って言うんです。

新聞の情報を何よりも大切にしていた人ですから、

私も「えっ」と思ったんです。

この期待に応えてくださいよ。

いつまでもいい新聞を作ることがこの期待に応える

ことですよ。

皆さんには頑張ってもらいたいとずっと思っているん

です。


■最後まで周りに気を遣うお父さんだった


 でも翁長が弱いところを見せるのは本当に初めて

です。

撤回の前日に記者の質問に答えられるかなと言った

とき、そして、亡くなる2日前ですか。

出会ってから本当に初めてと言っていいくらい。


 昨年の後半頃から、お風呂上がりに体重計に載る

たびに体重が減ったようです。

胃がんの後で75キロ。

これをキープしようと維持してきたんですが、70キロ

になり、65キロになり。

いくら何でも様子がおかしいんじゃないのと病院に

行き、体重減も気になるけど、血糖が上がったことも

気になると言われ、もしかしたら糖尿病かもと思い、

その日のうちに検査したら膵臓に腫瘍が見つかり

ました。


 最後に入院したとき、1回だけ「苦しい」といったこと

があるんです。

病室で車いすに乗ろうとした時に私が支えていたん

だけど、バランスを崩して、二人で転んだの。

私に苦労させたと思ったんだろうね。

そのとき、私にもたれかかるように「苦しい」と言ったの。

1回だけ。


 そのとき、死期を覚悟していたのもしれない。

もしかしたら恐怖があったのかもしれない。

こんなことを私に言ったの。


 「この先、子どもたちにあたることがあるかもしれない。

自分で自分をコントロールできなくなるかもしれないんだ。

そのときは、子どもたちに伝えてほしい。今のお父さんは

本当のお父さんじゃないよ。病気で自分をコントロール

できなくなっているんだよ」と。


 でも、最後までそんな必要はなかった。

最後の最後まで子どもたちにあたることはなかった。

周りに気を遣うお父さんだった。


 でも、でもね。ずっと難しい顔をしていたでしょ。

だから最後は見せてほしいと思った。

翁長の本当の笑顔を。

末っ子の甘えん坊の笑顔を。

明るくよく笑う人だったんです。

この4年間はほとんど見ることがなかったから。


【転載終了】

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 翁長氏は、政治生命をかけた本物の政治家

だったのでしょうね。


 週刊ポストに、安倍「悪だくみ人脈」の序列。

という記事がありました。


 読んでみて、ご報告できれば書きます。


 マスコミ関係やご用評論家、財界人、

挙句は芸能人の名前が出ています。


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